連載
コラム

小網代パール海育隊 ー 核入れ修行その1

私の住む三浦市には、明治時代にできた、大学の臨海実験所があり、その昔、のちに、ミキモトの女婿となる西川氏によって真珠養殖の研究が行われていたとのことです。
そのため、数年前、三浦市で真珠養殖を復活させようというプロジェクトが大学、行政、地元企業の協力で始まりました。ところが、養殖業は漁業者で無くては出来ません。それで、NPOの現理事長、所ヱ門丸の出口氏が頼まれ、親貝となる天然のアコヤガイを採取し、筏を作り、アコヤガイの育成を始めました。
私たちは真珠養殖の技術など全く見当もつきません。プロジェクトの方に三重県に研修に連れて行ってもらったりしながら、徐々に、徐々にと進め、いよいよ小学校で本格的に体験授業をやろうか?という矢先に、外部からの助成金の打ち切りに伴い、プロジェクトが解散になるという知らせを受けました。
授業を予定していた小学校は、私や理事長の母校、娘もお世話になった学校です。新聞記事にもなって大々的に発表された事業を、それで終わりというわけには行きません。何より「子どもたちに地元の海の素晴らしさを知ってもらいたい!」そこからは、私たちのNPOが主体となって、どうにか授業をやり切りました。
困ったのは、その後の技術の習得です。もう、以前のプロジェクト関係者ををあてにはできません。
知人を介して知り合うことができた、志摩市の養殖業者の方に教えていただくため、英虞湾に何度も通うこととなりました。初日、養殖業者の方に、明日の朝、何時に来ればよいですか?と尋ねたら、「自分は4時には来てる」と言われてびっくり(-_-;)。ビジネスホテルの朝食をキャンセルしてでかけました。まず、教えていただいたのは核入れです。今思えば、核入れの前にやらなければならないことは沢山あるのですが、とにかく、小学生に核入れを教えてなくてはなりません。
貝の栓差しからして、初めてのやり方でした。師匠である養殖業者の方が見事に仕立てた貝を、惜しげもなく使わせていただき、最初は恐る恐るでしたが、だんだん慣れると雑になって内臓を傷つけたり。師匠の入れた貝は、養生籠に並べるころには、水槽の中で早くもジモを出してくっついていたりしますが、私の入れた貝はもはや弱って瀕死のこともありました。
私がこちらに帰ってから、スダレに移して下さった師匠から、成績の電話が来ます。「メモせい、死に貝〇個、脱殻〇個・・・」その頃は、貝を育てて、仕立てることの大変さが理解できていませんでしたので、今思うと、なんと貴重な貝を無駄にしてしまったことか?と、思い出しても冷や汗がでます。