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コラム

保存科学の観点から ー 第5回 古代エジプト文明の遺産「ミイラ」の保存科学とは(2)

前回に続いて古代エジプト文明の貴重な遺産である「ミイラ」を取り上げたいと思います。今回は、無酸素環境によるミイラの長期保存・展示技術の周辺について触れたいと思います。
エジプト政府は、30年以上前からユネスコの協力を得て、国立ミュージアムである「エジプト文明博物館(以下NMEC)」の創設を進めてきました。種々の国内事情で一時期停滞していましたが、2015年に部分的に開館しています。前回の投稿に記したように、今年4月老朽化したエジプト考古学博物館(以下EM@カイロ)が所蔵する、ラムセス二世を含むファラオのミイラ(royal mummies)22体をNMECへ移送しました。博物館を担当する観光・考古省の方針で、NMECには王家のミイラを集めて保存・展示することになっており、世界中の注目のなか、図1のような厳重なセキュリティと派手な演出の下で、大規模パレードが行われました。豪華な移送専用車に一体一体安置された王のミイラは、損傷を防ぐため窒素を充填した特殊なガスバリア・カプセルに入れられ、車体は特別な衝撃吸収材で保護されていました。これらは外観からは窺えませんが、最先端の科学技術です。特殊なカプセルは無酸素(anoxia conditionあるいはoxygen-free)状態で、安定した環境です(詳細は前回の拙著をご参照ください)。

図1 ファラオのミイラを搭載した移送専用車のパレード

前回解説しましたが、4500年以上前からエジプト文明で製造されてきたミイラは、振動・衝撃に弱く、酸素や汚染ガスだけでなく相対湿度の変化に敏感で害虫・微生物にも感染しやすい遺産です。エジプト国内には計り知れない数の発掘されたミイラが現存しいていますが、ひどく傷んでいる資料も多く、保存管理が難しいです。そこで、国際的な保存科学界では、有害な生物(害虫・微生物)や汚染ガスなどからミイラを守るため、「無酸素・無汚染ガス+最適温度・湿度環境」でのカプセル化を提唱し、1980年代から洗練した予防保存技術を開発してきました。


図2 前川先生の追悼文

主導してきたのは、米国ロサンジェルスにあるゲッティ文化財保存研究所(GCI)の研究員を1989年から勤めていた日本人保存科学者、前川信先生(Shin Maekawa(図2):1952- 2016年)です。私が東京芸大大学院で学んでいた折に何度かお会いしました。エジプトとの研究交流も長く、ルクソールの王家の谷などの遺跡環境調査に尽力し、またEM所蔵のミイラを無酸素環境で展示保存するショーケースの設計研究に携わりました(図3)。芸大で取得した彼の学位論文も無酸素保存技術がテーマです(図4)。


図3 EMで窒素ガスによるミイラの展示保存ケースの指導をする前川先生


図4 前川先生の著書「ミュージアムの有害生物管理における不活性ガス」(1998:GCI)

無酸素環境を提供するためには、大きく二つの技術があります。一つは、不活性ガスであるアルゴンや窒素の液化ガス・シリンダーから供給し、酸素と置換して、環境を無酸素にする方法で、高いコストと常時管理の手間がかかります。もう一つは、空気中に含まれる約2割の酸素を取り去って窒素のみに濃縮する方法で、前者に比べるとコストは低く、メンテナンスも楽です。小規模ならば、市販の脱酸素剤を使うことも可能で、ガスバリア性が高いプラスチック・バッグ(ガスバリア袋)に対象資料を脱酸素剤とともに収納し長期間無酸素状態の保存環境を得られます(図5、図6)。ただ、ミイラを含めて有機質の資料を対象とするときは、両者とも環境中の水分量(絶対湿度)や相対湿度の変化には十分注意を払わないと、素材の劣化を招くことがあります。いずれにしても安定した無酸素環境は、酸素や水分、汚染ガスに敏感で害虫や微生物に侵されやすい有機質からなる貴重な遺産の保存には不可欠の技術です。現代の工業分野では電子基板の保存管理などにも応用されています。金属の場合は、無酸素・乾燥環境が必要です。


図5ガスバリア袋・脱酸素剤・調湿剤による「無酸素パック-モルデナイベ」(㈱資料保存器材)


図6 ガスバリア袋内の酸素濃度(%)の変化(㈱資料保存器材)

さて、王家のミイラ22体の移籍先のNMEC(図7)では、どのような保存や展示がされるのでしょうか?
エジプトに居たときに何度かNMECを訪問する機会がありました。最初は、確か2009年で、建設の大半は終了していましたが、内装が未完でした。2015年の部分開館後に収蔵庫や保存科学関連施設を見学した際には、多くの設備が入っていて、ミイラ保存のための無酸素環境収蔵庫も整ってミイラの到着を待っていました。


図7 22体のファラオのミイラが運ばれた国立エジプト文明博物館(NMEC)


図8 NMECのミイラ保存用設備(無酸素環境の大型収蔵庫)

現在は、王家のミイラ以外にも多くのミイラが搬入され(図8)、殺虫や害虫管理が可能な無酸素環境の大型収蔵庫の中で保存されています。液体窒素ガス・シリンダーからの窒素ガスを加湿しながら各ミイラの小型の収蔵ボックスへ導入しました。さらに、展示室では、「無酸素環境+温湿度管理」を完備した展示保存ケースのなかで、ファラオのミイラ達が眠っています。展示には照明光が不可欠ですが、ミイラは光エネルギーにも弱く、紫外線を発しない白色LED光が使われ、資料表面での照度を落とした展示が採用されているようです(図9)。展示には、コレクションを守るための総合的な予防保存の考え方や実践が必要です。


図9 NMECのミイラ展示室

次回のエジプト訪問の折には、是非NMECでファラオのミイラを鑑賞したいと思います。コロナ禍が明けたら、ツタンカーメン王の黄金マスクなど数々の秘宝を展示する、世界最大規模の大エジプト博物館(GEM)も公式に開館し、2つの新しい博物館には日本からも多くの観光客がつめかけることでしょう。そんな日が近づいています。ぜひ皆様も西洋文明の発祥の地、古代文明遺産の宝庫、エジプトへご旅行ください。きっと歴史観・世界観が変わると思います。