2008年・秋、「真珠クリーニング&メンテナンス(現・エステ)セミナー」の開講の準備が進められていた。
真珠はその生成構造の特性から、長期間に亘る使用により、変化することは不可避である。しかし、この事実は業界では認められていながらも、消費者に対しては、はれ物に触るがごとく曖昧な説明がなされる場合が多く、現実に劣化とみられる場合の変化(修復不可能なケース)を前にし、顧客に対して戸惑う小売店の姿があった。
そんな中、真珠科学研究所では、その変化の実態ごとに起因する根拠を整理し、可能な修復方法(機器開発含む)をまとめ、更に劣化と見做される事象の発生・進行を防止する方法(ツール開発含む)を対策し、市場啓蒙の意味も含めて首記「クリーニング&エステセミナー」をスタートした。
2日間・12時間に亘って、真珠の劣化とその修復について、理論と実践をマスターするセミナーである。初日6時間は小松ドクターが講師を、そして2日目は小生が講師を務めた。
このセミナーのスタートと前後して、小生が関わった、真珠に関連する“あれこれ話”をマルガリータに寄稿し始めたのが “真珠の散歩道”なる愚作欄である。
10年余りに亘り、ずいぶんマルガリータ読者諸兄の御目を汚したことは御勘弁を願いつつ、感謝致しておりますが、愈々、この散歩道も最終章として、締め括る時が来たようです。
(小生にとって、セミナー講師、真珠の散歩道執筆他、真珠科学研究所での諸活動は、小松ドクターのご指導の下、これこそ予てより志した道であり、本格的に打ち込めました。毎週上京し、火曜日から金曜日まで東京滞在勤務を続けて2年を経た頃、まさに「青天の霹靂」、アスベスト公害―悪性胸膜中皮腫―なる不治の病に罹病しました。少年時代に過ごした尼崎の環境のとんでもない置き土産が、50年を経て時限爆弾のように襲ったことになります。)
この闘病の苦節をまとめておいた『 克 服 の 記 』を紐解いて、“真珠の散歩道”最終章に代えさせていただきたく思います。
また、気紛れな散策で拾う話題があれば、番外編として寄稿することとさせてください。
<克 服 の 記>
[ 厳 令 ]
拝復 病状の治療方針とこれからの人生への決意についての書状ありがとうございます。
まさに青天の霹靂であろうことは十分推察しております。
・・・・・・・ ( 中 略 )・・・・・・・
いま、真珠を熟知し、珠が見え、養殖のことが分かり、修復保存の重要性を認識している業界人が何人いると思いますか、この業界に40年、50年以上いる人は少なくなったとはいえ、まだ相当数いらっしゃるとは思いますが、養殖・加工・修復保存の3つの分野あるいは切り口の重要性が分かる人となると、極言すれば私と坂本さんしかいないのです。
私たちの肩に業界の運命がかかっている。決して青臭い意味で言っているのではないのです。
高い気概を持って治療に専念してください。心から快復を願っています。 敬具
2010年5月9日
小松 博
真珠の世界の第一人者であり、真珠科学研究所の代表者である小松ドクターからの上記「厳令」の便りが届いたのは、<肺ガンであるのか、又はひょっとして胸膜中皮腫なのか>を診断するために、2010年5月、検査手術入院中のことでしたが、文中の私への過大な評価には、最大の励ましが込められていました。
2月の健康診断の異常に端を発した検査は、3月から4月までのPET・CT検査や、気管支鏡検査(耐え難き苦痛の45分間)でも確定できずに、友人のアドバイスもあり、兵庫県立がんセンターへの転院を希望して、漸く5月の検査手術を迎えたのである。
この2か月余りの間の苦悩は、今振り返っても表現しようもない凄まじいものであった。
・ 何が起きているのか?
・ 何故なのか?
・ どう進行するのか?
・ どんな治療が必要なのか?
・ どんな結末が・・・?
混乱した頭と動揺する不安の中では思考も進まず、いつも最初の疑問に戻るという繰り返しの日々であった。
情けないほどに茫然自失であったと思う。
この時ほど自分の弱さを思い知らされたことはない。意気地なしとすら卑下する自分がいた。(それでも、精いっぱいそうでないふりをしていたように思う。)
導眠剤の助けを借りなければ、とても就寝など不可能な精神状態であった。
この間の医師の説明は、とにかく検査結果を待ってからとされた。心配する娘が準備してくれた諸関連資料からは、これからのとんでもない治療が推察され、病名未詳のままに時間が過ぎるのを恨めしく思った。
答えのない自問自答と、漠然と推察されるこれからの治療への底知れぬ怖れの日々の狭間に届いた、師からの冒頭の便り、この「厳令」は自らを奮い立たせる契機となったと思う。
家族や友人に強く支えられての恵まれた環境は感謝の極みであったが、この師の「厳令」には、自分の弱りきった姿勢を正された思いであった。
この「厳令」による心の変化は、日を追って挑戦する気持ちの強まりとなって、病中の日記として今に残る「克服記」の中にも読み取れる。
5月31日、悪性胸膜中皮腫と診断された。
[ 振 り 返 る 日 々 ]
昭和18年、岸和田市は春木町に生まれ、幼児の頃に近隣宮前町に引っ越し、自然豊かな、とても牧歌的な環境で育ちました。
春木川は吾が遊びの場で、秘密の釣り場では鮒,モロコ、時には鯉やナマズやオイカワまで。
秋の稲刈りの済んだ田圃では穴からタニシを掘り出し、サツマイモの収穫後の畑では取り残した芋の掘り起こしに歓声を挙げていました。
開催のない日の春木競馬場は、スタートゲートとして引き込まれた芝生(雑草?)コーナーへ自由に出入りができ、近所の子供達の恰好の三角野球の場となりました。
勇壮な<だんじり祭り>の他にも小さな村祭りもあり、お囃子を遠くに聞きながら、自然の中でのびのびと育ちました。
小学校4年生の2学期が終了して冬休みに入った日に、父の転勤に伴って、尼崎の社宅(常光寺)に引っ越しました。
70~80軒ほどの社宅の敷地の真ん中には大きな広場があり、球技をはじめ、いつも子供達の色んな遊びの場でした。
少年たちの声に誘われて初めてその場に出た時、晴れているのに空の青さはくすんだようで、東の風にのって異様な臭いが鼻をつき、それは岸和田では経験したことのない空気でした。
この悪臭は製紙会社からのもので、爾来尼崎を離れるまでの約10年間、風向き次第ながら止むことは無かった。
煤煙の酷さも特筆されるものでした。象徴的な光景は、高校時代(市立尼崎高校、旧校舎は城内地区)体育授業の最中、小雨が降ると真っ白い体操着にポツポツと薄墨色の斑点が広がりました。雨粒が降下の途中で煤煙を伴い、まだらなドット模様となりました。
しかし、悪臭や煤煙よりももっと恐ろしいモノが住まいの空中を漂っていたとは、当時思いもしませんでした。
ただ、社宅の広場でボール遊びをしていた折、急にキラキラと光り舞う多くの埃を不思議に思ったことがありました。今にして思えば、これこそ後年に悪夢の如く正体を見せるものでした。
中学校(昭和中学校)への自転車通学は常光寺から尼崎工業高校前を通って立花方面へ向かうコースで、通学路でもこの悪魔を吸い込んでいたことになります。
この頃にお隣さんであった数歳年上の兄貴分は十年余り前に中皮腫で他界されたとか。
又、お向かいさんであった3歳下の弟分は数年前に中皮腫を発症して闘病中であるという。
北寄りの風が吹けば、我々3人が住まいした住宅の1階の屋根に吹き寄せられたアスベスト塵芥が、2階の窓から容赦なく吹き込んで来ていたことになる。
今、振り返って恐怖にふるえる絵図である。
せめて、兄弟姉妹に同じ災いとなって発症しないことを願うばかりである。
[ 闘 病 の 日 々 ]
兵庫県立がんセンターでの治療を前堤としながらも、確認の意味で「セカンドオピニオン」
として、兵庫医大呼吸器科の中野教授を訪ねた。
「兵庫県立がんセンターの吉村先生はかつて一緒に仕事をしたことがある。安心して委ねられる腕のよい優秀な先生であり、受診を推挙する。最後の放射線治療まで全うされたい。」旨が告げられた。
健康診断で異常発見を告げられて以降も、実際に患部に痛みや異常を感じることは無く、それだけに信じきれない思いもあったが、思い返してみれば、出張帰途の新幹線で疲れ切っているのに発汗して眠れないことが続いてはいた。
検査手術後に初めて胸部に痛みや異常が感じられた。検査手術による事後の痛みではとの思いも頭をよぎったが、もうその推察の段階ではないことを理解していた。
一日も早く治療に入りたいと強く思った。
兵庫県立がんセンター呼吸器科は内科と外科に分かれていた。
主担当は呼吸器外科とされ、下記治療方針が説明され、7月5日スタートが決定した。
治療方針は
①抗がん剤投与治療 3クール・・・胸膜内腫瘍の縮小を図る。
②左肺胸膜全摘出手術・・・・・・・胸膜内外腫瘍、左肺を摘出する。
③放射線治療(完全除去)・・・ ・・胸膜端を主対象に放射線を照射する。
上記をもって根治を計るというものであった。
① 抗がん剤投与治療(シスプラチン・アリムタ点滴―――7時間投与)
呼吸器内科での対応で
第1クール:7月12日スタート
第2クール:8月02日スタート
第3クール:8月23日スタート
9月01日 終了
1クール終了の都度、数日間退院在宅し、体調回復を計った。
期間中は都度繰り返して諸検査が有り、連日詳細チェックを受けつつ治療が続行された。
7時間、ベッド上の横臥姿勢での抗がん剤点滴は時間の経つのがもどかしい限りであった。
この治療のあとには左肺胸部全摘という大手術が控えており、そのために最大限体力を保全するよう指導されていた。
3度の食事の他、果実や間食に制限はなく、充分に摂取して、67㎏の体力・体重を落とすことなく、点滴日以外は院内遊歩を習慣とした。
又、自分はさほど神経質でもないと思うが、相部屋は同室者の症状に影響を受け、どうしても睡眠が浅くなったので、手術前の体力保全を意図して個室を希望し、「空き」が出れば、即転室を申し込んだ。
抗がん剤投与が終了すると、決まって吃逆(しゃっくり)と腹部廻りにジンマシンが出て、治まるのに2~3日を要し、又、酷い倦怠感や臭気過敏の状況も難儀なことではあった。
家族・妹達・友人・近隣者・会社同僚夫々の見舞い来院の気遣いや、心のこもった「美味」で、元気を取り戻した。ありがたくいつも強く励まされた。
治療の合間を見て、下記諸アクションを進めた。
当時は病室へのパソコン持ち込みは憚るところであったが、黙認してもらい、個室となって
からは自由度が増した。次のクールとの間の短い帰宅時間も利用した。
*当期間中のアクションとして、
・環境再生保全機構とのやりとりと対応。
・尼崎市労働者安全衛生センターとのやりとり。
飯田事務局長来宅、諸指導を受ける。50年前の証左を得る難度を痛感。
(50年前の記録の絶えた居住証明では、東洋紡績本社人事労政課から格別の配慮。)
・真珠科学研究所とのセミナー打ち合わせ、及びコラム諸原稿の作成(休みなく寄稿)。
抗がん剤治療入院の前日、7月4日には大きな喜びがあった。
長男の婚約者家族との会食があった。フィアンセのお母さんと弟さんとは初顔合わせ。
新しい家族の始まりであり、都合6人での嬉しいひと時に明日からの元気をもらった。
会食の場は長女の夫が手配してくれた。夫の友人が総支配人であるグリーンヒルホテル神戸。
挙式は来年4月9日、神戸北野異人館<旧クルぺ邸 セントジョージジャパン>と決定。
きっと桜花満開であろう。私にとっては、全ての治療を終えて初めて迎える春となる。
② 左肺胸膜全摘出手術
10月4日、抗がん剤治療終了から約1か月、充分な体力回復後、予めの諸検査を終えてICU、手術室、麻酔科夫々から詳細な事前説明を受けた。呼吸器外科最難手術の一つという。
前夜の心境が<克服記>に残されている。
~ 大手術前夜です 怖さと開き直りが交互です 術後の状況が想像し難い
余程の痛さと苦しさでしょう 万全の治療を受けつつ回復へ耐えるだけでしょう ~
家族の見守る中、手術室へ ―――――――
9時に始まり、16時半にはICUへ。
覚醒した瞬間、家族の安堵の視線を感じた。麻酔の効果があって胸部に痛みはないが、まるで剣道の胴着を身に着けているような分厚く鈍い感覚であった。
左肩から首根っこにかけての痛みが激しく意外に思った。後で聞いたことだが手術の間は左脇を開けるため、左手を万歳の形で頭部に強く括っていたからという。
左肺に思いを致した時、片肺の喪失感に<親に申し訳ない>的な感情が起こった。
息遣いは苦しくはないものの、右肺だけのこれからへの不安が頭をよぎった。
ICUの一夜は、薄く目覚めると、動けぬ体に連なる諸計器だけでなく、常に麻酔医、担当医の姿があり、絶え間ないケアであったと思う。
ICUでの術後視察は2~3日を予定していると聞かされていたが、一夜で病室に戻った。
ICUが過密で、術後経過が順調なものが病室に戻るとなったらしい。
自分が選ばれて、術後事態の順調さを推察した。最大の難所を越えた実感があった。
術後、待機室で待つ家族に、執刀医から<手術の報告と摘出臓器の提示>があったと聞いた。
強烈であったのであろう。今になっても、妻や娘からその折のことを印象深く聞かされる。
日増しに痛みは激しくなり、術後10日を過ぎるころは胸部・上腹部は胸水?で、パンパンに飽和した状態となり、麻薬の投与により苦痛を脱した。
術後2週間を過ぎる頃には痛みはうすれ、鎖骨に沿った点滴用針も外された。手術切開部の縫合ホッチキス(糸ではなく)の針外しには驚いた。約15ミリ間隔で50本近く、その上から幅広透明テープで覆われていた。2度に分けて外された。
入院中、同年代で親しく話せる御仁がいた。私と同じ日に肺ガンの手術をして、同時刻頃にICUに入った間柄であった。
幾度か、見舞い客から戴いた手料理を食堂で分け合って、美味い,旨いと言いつつ、退院後のそれぞれの楽しみを笑いあった。
社交ダンス他、私とは全く違った多方面の趣味は、聴いていて、とても楽しい時間であった。
11月4日,手術における肋骨カットについての説明があった。
丁度手術入院から1か月経ち、5日の退院を前にした諸説明の中での話である。今後不都合があれば、整形の再手術が考えられるということである。(結果、再手術の必要はなかった。)
略述すると次のようになる。自分でもよく解らぬが、どうともならぬところである。
「上から数えて、第5番目から第8番目までの肋骨がカットされ、5,6番目のセンター部は除去され、残せる肋骨は繋がれ、或いは束ね括られ、形を整えられた」という。
わが身に起きたことながら、その凄さを思った。
近代医学に、そしてこれを熟す技術医師陣に、只々敬意を表するばかりのことであった。
③ 放射線治療
左肺胸膜全摘出手術を終えても、患部周辺に残存する懸念のあるがん細胞を完全に除去して再発を防止するため、月曜日から金曜日まで、計30回、トータル51グレーの放射線を照射する治療である。1日1回の照射時間は極めて短時間である。
11月25日、ボデイペインティングさながら、左胸部上に照射する図面が描かれ、放射線の照射がスタートした。
左肺胸膜全摘手術を終えて、治療の山場を越えた安堵感があり、放射線治療を少し甘く見ていたことを思い知らされた。
思わぬ大敵であった。
翌日から、ムカつき・咳き込み・吐き気・食欲不振・ふらつきが日を追って酷くなる。
土曜・日曜日は照射がなく、少しは治まるものの、月曜日に照射が再開すれば諸症状が進み、まるで車酔い連続の感であった。
治療が続き、12月も半ばを過ぎる頃から皮膚がただれて、一段と不調に悩まされる日が多くなった。
食が進まないのは体調や病院食特有の献立のせいばかりではなく、使用する樹脂食器の化学特性での臭いが温熱の中でムーンと鼻をつき、不振に追い打ちをかけた。
友人、家族がたびたび私の好物を差し入れ、消化器官が空にならぬように助けてくれた。
限りある命のせっかくの一日一日が、ただ早く過ぎるのを願うのは空しいものであった。
正月休みの一時帰宅があり、実に救いのタイミングであった。
強い心を取り戻して、1月3日夕刻に病室に戻り、翌日からの胃の引き攣るような苦痛に耐えた。
そして
1月11日、<胸膜中皮腫の標準治療を全て終了>、退院した。
下記は< 治療の経過の表欄である。>
年月日 医 療 機 関 科 診 断
2010.2.24 明石医療(C) 明石市健康診断 <結果>異常発見
3.23 明石医療(C) 呼吸器 明石医療 → 県立がんセンターへPET・CT依頼
4.08 がんセンター PET・CT受診
4.16 明石医療(C) 呼吸器 肺がん<Ⅳ?>・胸膜播種確認、気管支鏡検査指示
4.26 <検査結果> がん細胞採取されず、検査手術が必要
〃 (悪性胸膜中皮種の可能性も否定できず)
〃 「がんセンターへの転院」を選択
5.11 がんセンター 呼吸器内科 諸検査後、呼吸器外科で開胸検査必要と診断
〃 呼吸器外科 同上 諸リスクの説明
5.12 骨シンチ検査
5.19 脳ⅯRI検査
5.20 呼吸器外科 検査判断、開胸検査手術決定
5.26 (入院) 全般詳細説明 体重66.6㎏
5.28 検査手術(9~12時)その後ICU
5.31 医師「やはり悪性腫瘍であったようだ」
6.03 医師「アスベストとの関りは?」質問あり
6.07 医師 <細胞検査結果>説明
〃 「悪性胸膜中皮種」と治療について詳細説明
6.08 (退院)
6.15 がんセンターでの治療を前提として
〃 「セカンドオピニオン」兵庫医大へ
6.22 兵庫医大病院 呼吸器 「セカンドオピニオン」受講 がんセンター推挙
6.29 がんセンター 呼吸器外科 治療情報公開を承認 呼吸器内科での治療へ
〃 呼吸器内科 7/5 から 抗がん剤投与治療
7.05 (入院) 呼吸器内科 抗がん剤治療予定説明
7.06 骨シンチ
7.07 胸部CT検査
7.08 頭部CT検査
7.12 抗がん剤(アリムタ・シスプラチン)点滴
7.27 (退院) 第1クール終了
8.01 (入院) 呼吸器内科 第2クール予定説明
8.02 抗がん剤点滴
8.12 (退院)
8.19 (入院) 第3クール予定説明
8.23 抗がん剤点滴
8.31 呼吸器外科 診断「手術あらましと検査日程決定」
9.02 (退院) 抗がん剤治療総括
9.06 呼吸器外科 CT検査
9.10 肺換気・血流シンチ検査
9.14 諸検査 心臓エコー、心電図、肺活量、脳МRI
〃 血液検査、骨シンチ(注入と造影)、鼻検査
9.16 PET・CT検査
9.21 10月手術予定説明
9.30 (入院) 手術詳細説明(担当医師)
10.01 ICU、手術室、麻酔科夫々からも手術説明
〃 (呼吸器外科最難手術の一つという)
10.04 左肺胸膜全摘出手術(9:00~16:00)・ICU
10.05 13:00 経過良好 ICUから病室へ
〃 日毎に 激痛 服薬 <2週間後に、ほぼ鎮静>
10.22 薬剤部より投薬説明
11.01 放射線科 放射線治療予定説明
11.05 (退院)
11.16 呼吸器外科 術後診断“順調”
11.22 (入院) 呼吸器外科
〃 放射線科 照射域決定 照射
12.30 (正月仮退院)
2011.1.03(入院)
1.04 放射線科 照射
1.11 (退院)
全終了
上記期間中
11月19日 中皮腫患者と家族の会 飯田事務局長のご案内で 古川会長 クボタ社員3氏 来宅
23日 中皮腫研究家(産大) 車谷・熊谷両教授 症状と経過の聴取
[ 退 院 の 後 ]
退院直後は、毎週定曜日、担当医師の外来診療で諸検査をもとに経過診断を受けた。
半年後には、月次診断となり、1年半後には隔月診断へ。2年後以降は3か月診断となって今日に続いている。
その間、PET CT検査、通常CT検査、X線検査、血液検査が適宜実施されている。
この定時診断で近年特筆されるのは、手術で全摘出された左肺の跡には、人工横隔膜を押しのけて胃が徐々に侵入し、左肺跡空間は鎖骨近くに小さく認められる程度になっている。
カットされて修復された肋骨群は複雑な構造を形成し、上記胃の侵入によって左胸郭は扁平に膨らみ、胸郭は左右非対称が進行している。
左胸部は、謂わば、ブラックボックスの態をなしており、診断時は右肺の健康度の診断が中心となる。
このブラックボックスで発生する諸症状は退院後、多くの不調を惹起し、幾度か「愈々か」と“死”の観念とも思える心境を経験した。
中皮腫の予後不良という事実を認識させるに十分な怖れであった。
幸いにも今日まで10年間、自宅でも出張先でも救急119番にお世話にならずに過ごせた。
3年前から、呼吸器外科の担当医師の判断で、この暗闇に似た症状はタイアップした麻酔科の緩和治療、主として漢方薬による穏やかな処方に救われている。
2011年4月9日 長男の結婚式には、退院後3か月を経て体調も整い、出席が叶った。
朝からの小雨も挙式の頃には晴れ上がり、披露宴後の中庭での撮影会は満開に咲く桜の下、
入学式のため、遅れて出席した娘一家も加わり、晴れやかに和やかに嬉々溢れる日であった。
雨上がりの旧クルぺ邸の庭の緑は、一入新鮮であった。
5月の神戸国際宝飾展(ポートアイランド国際会議場)を仕事復帰の場と決めていた。
退院後4ヶ月、復帰を待ってくれた同僚との再会、自社ブースに来訪する業界人や取引先との再会は嬉しく、過ぎた闘病の一年を忘れるほどであった。
これからの業務は、以前のような火曜から金曜にかけての東京滞在出張は不可能であり、上京は、担当のセミナー講師、東京国際宝飾展、自社開催等の学会、特別会議に限定して、月刊誌「マルガリータ」の、私の担当コラム「真珠の散歩道」出稿の他、パソコンによる在宅業務について打ち合わせた。
手術時の大量の輸血は、思わぬ副効果をもたらした。
入院前は、春の花粉症が年々ひどくなり、鼻詰まり、目のかゆみ等の不快症状が酷かったが
退院以降、花粉症が解消され、春の訪れを懸念なく喜べるところとなった。
がんセンター入院時の<看護婦さん>への感謝は尽きない。
今でこそ、「がん」は二人に一人は罹患する病、特別ながんはともかくとして、早期発見で治癒する病としても理解されてきているが、
10年前は、がんは「不治の病」として、怖れられていたように思う。
まして、悪性胸膜中皮腫にいたっては、5年生存率は4%未満という絶対難治の病であった。当然のことながら、看護婦さんを取り巻く入院患者は、すべて何らかのがん患者である。
入院当初から、看護婦さんのがん患者に対する姿勢・言動には、特別な印象を強く受けた。
幼い頃から、機会多く、病院にはお世話になった記憶があるが、それとは全く違った。
通常に教育されただけでは、かくも徹底するものではないように思えるものがあった。
症状厳しい折も、少し穏やかな時も、日中は勿論のこと、夜間の懐中電灯を持った見回りの折の心遣い等、いたわりと親身が伝わる日々で、こころ鎮まり、救われる思いであった。
不治の病の患者に接する看護は、これほどに徹底するものかと感動、感謝した。
10年を経た今、往時から今もがんセンターに在職する看護婦さんは数少ない。
心身に及ぶハードワークの故であろうか。
[ 現 在 の 体 調 ]
10年を経た現在の体調は次の通りです。<体重:退院以降57㎏をキープ>
* 骨格:上半身は左右非対称に歪み(右胸郭部は自然な痩せ形も、左部分は異形に膨大)
背骨は小さく左右に湾曲、前傾(猫背)、正常な姿勢が難しく、ふらつき易い。
* 痛み:手術跡付近が引き攣り気味に痺れ、ギスギスして痛む。(数分間・漢方薬対応)
胸郭内の神経異常と推察される痛みが多発する。(数分間・漢方薬対応)
* 呼吸:元々の肺活量の大きさもあり、右肺のみで補助呼吸器の必要がないのは救い。
* 咳痰:頻度、量ともに年々多くなり、気管絡みも多くなり、喀痰力は低下している。
* 心臓:健気に頑張ってくれていますが、疲労時には頻発する不整脈に驚く。
* 胃腸:位置が移動、形状変化も自認。容量減少し満腹は早い。食後に違和感あり。
* 行動:上下肢の運動は可能、休み休みではあるが、30分間程度の散歩は可能である。
頑張った場合(例、上京)帰宅して2~3日は動けない。
* 他 :累積する薬害もあろうか?加齢とともに少しの疲れで頭脳も鈍く、難聴が進む。
[ 今 思 う こ と ]
小松師の「厳令」による心の変化<病への挑戦姿勢>を冒頭に記したが、時を前後して
大学時代の友人に紹介された、ある導師の「 宇宙の営み、気の遠くなるような無窮の時空にあって、この地球上での人の一生は、仏さまの瞬きの間のようなものでありましょう。」で始まる訓話に、不思議に心は鎮まり、とるべき姿勢が腑に落ちるのが実感された。
師の厳令とともに、今もいつも心の支えとなっている。
有り難いことと思う。不幸にして罹病したが、公私周囲のお陰で、クボタ起因の中皮腫患者での存命記録を更新中であるとのこと、外来診療時に担当医師に励まされている。
長男の家庭は男子誕生に恵まれ、4歳半と2歳になった。外孫で医学部(3回生)に学ぶ孫娘とともに、私の元気の源である。
今年の上京は体力的にも難しいとして、仕事は今期で卒業するつもりであったが、過般、新セミナー企画の打ち合わせに、真珠科学研究所幹部二方が明石に出向いてくれた。
又、社長副社長も神戸取引先への挨拶途上、明石まで足を延ばしてお声掛けいただいた。
それぞれ、同士のお気遣いに感謝しながら、長年関わった真珠の仕事も、病との闘いに、強い動機付けとなったと振り返る。
私の母は、「喜寿」の日の40日前に逝った。
私はあと30日で「喜寿」を迎える。親より1日でも長く生きるは恩返しの1つとか。
晩年のトラブルはあったが、「超えてきましたよ」と報告したい。
2020・10・27