朝からの雨模様は強弱のリズムを刻みつつ終日上がることはなく、畑中の畦道を歩み箸墓古墳をはじめとして纏向遺跡を長時間にわたり訪ねる一行には、一足早い秋冷を覚える日であった。
2011年10月、真珠科学研究所のその年の社員研修旅行は、魏志倭人伝で、壱与の時代に白玉(真珠)5000孔(個)を魏王に献上したとされる邪馬台国、とりわけ女王卑弥呼の墓所との説なる地を訪ね歩き、その古墳の雄大さと佇まいを肌身に感じ、周辺に存在したであろうその巨大集落を思い描き、その時代に思いを馳せることにあった。
芥川賞作家である高城修三氏に、当日の特段の解説案内をお願いしての文字通り研修色の濃い旅行となり、夕食前には氏による「特別講演」が組まれ、その後の懇親会も諸説をめぐって随分盛り上がった。
これをご縁に、マルガリータ・コラム「季語彩彩」がスタートし、回を追って好評を博している。
さて、纏向遺跡では平成21年、複数の建物跡が見つかり、22年にはこれらのうちの大型建屋跡の南側の穴から2000個以上の桃の種が土器と共に出土した。
そのうち15個の種を名古屋大学の中村俊夫名誉教授が放射性炭素(C14)年代測定法で調査したところ、測定できなかった3個を除き、西暦135~230年のものと分かった。
又、徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲研究員による測定でも、ほぼ同様の結果が出たという。
纏向遺跡は初期ヤマト政権の首都跡で、現桜井市北部にあり、広さは東西約2キロ、南北約1.5キロに及んでいた。
当ヤマト政権は、弥生時代末期に出現し、古墳時代前期に姿を消した。
昭和40年代からの発掘調査で、卑弥呼の宮殿跡と考えられる3世紀前半の大型建物跡や最古級の古墳、物資輸送用の運河跡のほか、東海地方や吉備、出雲など全国各地の土器が確認され、全国から人が集まる当時の中心地であったことが明らかにされている。
また、遺跡内の古墳から出土した土器付着物についても、放射性炭素年代測定法による調査で西暦100~200年との分析結果が出ている。
卑弥呼(生年不明~248年頃)が邪馬台国を治めたとされる年代と重なり、「畿内説」を後押しする研究成果といえそうである。
纏向学研究センターの寺沢薫所長(考古学)は「複数の機関による調査で同様の結果が出たことは重要な成果である。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査結果とも合致する」と話す。
一方、「九州説」を唱える高島忠平・佐賀女子短期大学名誉教授(考古学)は「遺跡の年代を示す複数の資料がないと確実性が高いとはいえず、桃の種だけでは参考にしかならない。もし年代が正しいと仮定しても、卑弥呼とのつながりを示す根拠にはならず、邪馬台国論争とは別の話」と反論している。
真珠科学研究所では「真珠は文化財」であるとの見地から、社の要人は「文化財保存修復学会」会員であり、毎年恒例の総会(発表会)での社内研究結果(経過)の発表をはじめ、学会の活動に賛同している。
この学会でも、邪馬台国論争では「畿内説」と「九州説」とに分かれ、論じて楽しい。
とりわけ「白玉5000孔(個)」は、真珠業界人を「邪馬台国の世界」へ誘う。
(マルガリータNo.321 2018年8月号)