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保存科学の視点から ー第15回 予防保存(6):文化遺産におけるリスク・アセスメントとダメージの軽減・防止

前回は、「予防保存(preventive conservation)」の原理とリスク・アセスメントについて概観しました。文化遺産に影響を与え劣化・損傷を招くリスクについては、繰り返しになりますが、カナダ国立文化財研究所(CCI)が提唱する10項目の劣化因子(CCI’S ten agents of deterioration)を取り上げてきました。ここで重要なのは、一般的にリスクについては、その「発生する頻度・可能性」と「予想される影響・インパクト」の両方を考量する必要性であり、これは文化遺産でも同様です。さらにリスク(劣化・損傷現象)は、 内在因子(文化遺産のもっている生来的因子)と外環因子(文化遺産を取り巻く環境因子)との相関関係 によって発生します。
ある因子に対して文化遺産を構成するあらゆる材料が、同じような劣化挙動を示すのではなく、それぞれ異なった変化の様相が観察されます。例えば神社の社殿に塗られた漆は日光(紫外線)に対して脆弱で徐々に劣化(粉化や亀裂)が進みますが、陶磁器はほとんど変化しません。また空気中の有機酸ガス(酢酸など)に対して金属や鉛顔料などは激しく反応し変質しますが、ガラスなどの劣化はさほどではありません。

 

再び「マンガ原画」(漫画家が画材等により描く原稿で、完成後に出版社へ渡され印刷される:現在、制作はデジタル化されたのでPC上での作業が多い)で例示してみたいと思います。まずマンガ原画の内在因子は、支持体である原稿用紙(かつては酸性紙だった)と画材(各種インク類やホワイト)に加え、写真植字(写植)やスクリーントーン、接着テープ等多様な素材が使用され、これらすべてが内在因子ということになり、劣化することが予見されます。

 

マンガ原画は、漫画家の手によって制作された後に、出版社へ渡され、編集・印刷されて週刊・月刊誌になり、単行本として刊行されます。この編集・印刷の工程で、原稿にいろいろな指示が書き加えられ修正されたりします。これらのすべての情報が、原画オリジナルのもつ内在因子であり、保存すべき対象となります。上のドラえもんの原画でも写植が貼られてますし、剥がれて接着剤が変色した箇所も見受けられますね。写植では変色した銀が析出することもあります。

 

つぎに、このオリジナル原画を取り巻いているのが外環因子で、CCIの劣化因子が相当します。上図に示す8項目はマンガ原画に影響を及ぼし劣化を生じさせる主要な外環因子です。ただこれら項目は描かれた原稿用紙に対して同じスピードで影響を及ぼしてはおらず、害虫やカビなどは保管条件によって被害が生じ、また照明時のみ光劣化が心配されます。その一方で、脱酸素環境に置かなければ酸素に曝され続けますし、水蒸気・汚染物質・有害ガスも目視で確認することが難しいですね。オゾンのように非常に強い酸化剤に接触すると色材の変色は瞬時に起こりますが、温度・湿度の変化による影響は長期の保管のなかで目視されるようになります。もちろん専用収蔵庫の冷暗所で適切環境に置き続けば原画の劣化度は上昇しませんが、漫画家や出版社の倉庫のダンボール箱内は、温湿度、害虫、有害ガス等の環境としては不適切ですし、印刷・展示など活用によって摩擦や露光、温湿度変化などにより劣化が進みます。

 

 

このように文化遺産の内在因子とそれを取り巻く外環因子の相関関係によって、対象の価値の減少や劣化の進行度合いに違いが生じます。「時間経過」と「価値の減少・状態の変化」の関係を想定したイメージが上の概念図です。
例えば、図の黄色線、陶磁器・鉱物・宝石・貴金属などは耐久性が非常に高い材質であり、外環因子による影響を受けにくいですが、石材・金属・漆などや一般的な美術作品、有機質宝石である真珠・珊瑚・象牙などは外環因子によって徐々に影響を受けて、状態の劣化進行が想定されます(灰色線)。またスローファイヤーで自己崩壊する酸性紙、多くの有機質遺産、現代アートの一部や脆弱な美術作品はさまざまなリスクに曝され時間経過のなかで状態が大きく変化し価値が減少していきます(青色線)。さらに橙線にように火災やテロ、地震や洪水等の災害あるいはオゾン等の反応性の強いガスに接触すると、遺産は短時間に状態が激変して価値が滅失することになります。陶磁器やガラスなどは地震に弱く、図書や有機質遺産は津波・洪水でカビを生じてしまいます。

 

 

「リスク(内在因子×外環因子の関係)の頻度や発生の可能性」と「重大性・価値の喪失度」の相関性を考えたのが上図です。瞬間/短時間に発生し、頻発するリスクによって文化遺産は強いインパクトを受け、重度の被害を受け価値が喪失します。図中の右上「ダメージが最大」の状況です。他方、長期にわたりリスクの発生確率が極めて低いケース(左下)は、ダメージが小さく価値の喪失も軽度です。いずれにしても、文化遺産は、眼には見えなくても常に何らかのリスクに曝されていますから、できるだけリスクを可視化すること、もしそれができなくてもリスクを想定しておくことが肝心です。リスクへの意識が低い場合には、ダメージが発生してもその原因追究に時間と労力がかかることになります。

 

予防保存の究極の目標は、『「内在因子×外環因子の関係」を常に意識し、リスク・ヘッジ※によって文化遺産へ重度の影響を与えないこと、価値の喪失を未然に軽減し防止すること』 と理解できます。

 

※リスク・ヘッジ:起こりうるリスクの程度・頻度を予測して、リスクに対応できる体制(リスク・レベルを下げ、発生頻度を減らすこと)を取ること。

 

参考文献

Jonathan Ashley-Smith: “Risk Assessment for Object Conservation”, Butterworth-Heinemann (1999 Oxford) ISBN 07506 2853 7