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連載コラム 「保存科学の視点から」 第14回 予防保存(5):予防保存の原理

今回は、連載している「予防保存(preventive conservation)」における原理について、解説したいと思います。まず、文化遺産の保存継承において私が大切にしている格言、

 

Prevention is better than cure! 《予防に勝る治療なし!》

 

について述べたいと思います。これは、『痴愚神礼賛』で著名なオランダの司祭デジデリウス・エラスムス(1466-1536)の格言で、病気になって治療するよりも、予防することの方が健康維持には効果的との金句です。病気になってしまえば、病院を受診し、検査・加療しなくてはならず、肉体にかかる負担も、時間も、医療費も、あるいは精神面などへも少なくない影響を与えます。病気にならなければこれらの人生にかかる負荷は回避できるので、健康増進・疾病予防が推奨されます。自然災害への対抗もこの格言が当てはまり、予知が難しい地震や短時間での避難が必要な台風や洪水等の災害へも、免震・耐震対策、避難所や防災グッズの確保など、平時に備えておくことで被害を軽減することが可能ですね。

 

 

この金言は、文化遺産の保存継承にもそのまま適用できます。作品・資料に直接的介入する治療(安定化・修復・復元の侵襲処置でリスクをともなう)をせずに、さまざまな外環(劣化)因子に対抗できる環境条件の適正化により劣化・損傷を未然に防ごうと訴えています。「治療処置をせず予防対策によって遺産の永続的保存継承」ができれば、修復費用は不要であり、介入処置による作品・資料にかかる負担もありません。展示など活用できる機会も確保され続けます。《予防に勝る治療なし!》 は、文化遺産保護を進めるわれわれにも重要な教訓を与えているのです。

 

 

さて 《予防に勝る治療なし!》 を実践するためには、前述した、劣化・損傷にかかわる外環からの圧に対抗する環境整備が必須になります。下記には6項目が挙げられていますが、ダメージは文化遺産が生来的にもっている内在因子とそれを取り巻く外環因子の関係性で発生する(詳しくは次回に取り上げます)ので、予防保存の実務では両因子について注目しておくことが必要です。極端な例を挙げると、陶磁器は生物被害や温湿度変化を憂慮する必要がありませんが、地震・振動などのリスクから守らねばなりません。また古文書は火災や害虫・カビなどのリスクにより短時間で大きなダメージを受けますが、振動・落下などの物理的因子は影響が些少です。

 

 

ここで、 リスク(危険可能性)という概念が登場します。上の1~6の黄字はすべてリスクですね。リスクは「将来いずれかの時に起こる不確定な事象とその影響」という意味で、「確実な予想はできないが,定量的に評価するには,発生する可能性のある損害の規模と発生確率を考量する必要」があります。日本では生産現場などにおける労働安全衛生において専門的に使用されており、また日常でも「リスクが大きい・小さい(高い・低い)」といった使い方がされてますね。

リスクは「われわれの行動目的・目標に悪影響を与える何かが発生する可能性」と定義され、前述のように「発生する頻度・可能性」と「予想される影響・インパクト」の両方に注目します。またリスクは過去や現在でなく、未来を指していることの認識が重要です。生産現場では、リスクの発見・評価・分析などの「リスク・アセスメント」や、リスクの管理・軽減などの「リスク・マネジメント」という概念が導入され、これを積極的に運用しています。重要なのはそれらの組み合わせで、どちらか一方だけを考えると、リスクを正しく理解できなくなります。たとえば、「航空機事故が発生する確率(約20万5552分の1)は極めて低く、死亡率は0.00048%でしかない。他方で自動車事故の死亡率(0.9%)は低いが、発生頻度はかなり高いので、自動車による死亡リスクは航空機の2000倍近く高い。」と表現されます。日頃の生活の場面場面で、われわれはリスクの受容、拒否、変更(修正)といった意思決定をおこなっています。仕事の現場での意思決定には責任が伴うことも忘れてはならないですね。

 

 

労働安全衛生分野では、上の図のような基本的手順で「リスクアセスメント」・「リスクマネジメント」が導入されています。実務上では、①劣化・原因の調査・推定、②リスクの発見・特定、③リスクの分析・評価(優先度・定量)、④リスクへの対処(軽減・除去)、⑤モニタリング・再調査、の工程が循環(サイクル)し、危険回避を図ります。このサイクルをどのように実施するかはそれぞれの現場によって異なりますが、管理者は常に注意を払っておく必要があります。

 

 

文化遺産のそのもの(内在因子)と取り巻く外環因子の関係性を リスクで考えたのが上図です。リスクの大きさは、両者の内容を分析・評価することにより推定できます。したがって、文化遺産の所有者・管理者は、常にリスクの大きさを念頭に予防保存策を講じておく必要があります。短時間にダメージが発生するリスク・レベルが高いと推定するなら、直ぐにでもそのインパクトの程度を下げ、(可能なら)取り除くことを優先させます。またリスク・レベルが低いと評価しても、長期間のエージングによって潜在的ダメージの増加が起こる場合や、一定期間安定していてもある時を境に急激な劣化が発生する場合もあり、個々のリスクを考量しておく必要があります。このように リスク・アセスメントの考え方は、労働安全衛生や日常生活だけでなく、文化遺産の予防保存にとっても重要です。《予防に勝る治療なし!》 の金言とともに、文化遺産の永続的な保存継承のための活動を支える原理です。

 

次回は、リスク・アセスメントの考え方を導入した予防保存について考えます。

 

参考文献

Jonathan Ashley-Smith: “Risk Assessment for Object Conservation”, Butterworth-Heinemann (1999 Oxford) ISBN 07506 2853 7