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コラム

保存科学の視点から ー 第11回 予防保存(2):大気汚染物質による材質への影響

前回は、美術作品や歴史資料を守るための「予防保存(preventive conservation)」について触れました。予防保存は、ある条件の下で劣化現象を引き起こす可能性ある環境因子を精査し、事前にこれらを低減・削除して対象を守ろうとする活動です。その意味で、対象が文化遺産ではなくても、ジュエリーのように、長期間の保存が必要で劣化が予想されるモノに対して、この考え方は適用可能です。あるいは電子基板のように比較的短期間の利用であっても、その間の良好な機能運用が期待されるモノに対しても、環境管理の考え方は重要です。

予防保存の原理は、対象が置かれた環境因子(リスク)と因子が及ぼす影響(インパクト)との関係性で説明されます。今回は、カナダ国立文化遺産保存研究所(Canadian Conservation Institute:CCI)が提唱する10項目の劣化因子(ten agents of deterioration)の中の 汚染物質(ガス、エアロゾルなど)を紹介します。

1.直接的に加わる物理的な力(摩擦、振動、圧力)
2.人災(盗難、ヴァンダリズム、無関心・放置・廃棄)
3.火災(放火、失火)
4.水(空気中の水蒸気、含有水分、土中・海水・河川)
5.有害生物(小動物、害虫、微生物など)
6.汚染物質(有害ガス、エアロゾルなど)
7.光(可視光・紫外線・赤外線)
8.不適切な温度(T)
9.不適切な相対湿度(RH)
10. 解離(資料の所在不明や固有情報・資料価値の喪失)

前回の「18金製ネックレスに黒っぽい錆が発生したケース」の事故例では、1)錆が硫化銀や硫化銅(AgS、CuS・Cu2S)であったこと、2)その原因が展示台に貼られたクロスの染料から発した硫黄Sを含むガスが劣化因子であったこと、さらに3)このクロスを硫化染料不使用の布に代替しその後この事故防ぐことができたこと、に触れました。
さて美術品や歴史資料に対する有害ガスについては、「大気汚染物質」と「室内汚染物質」に大別されます。前回の事故例は「室内汚染物質」が原因でした。他にも、アンモニア、有機酸、アルデヒドの三強やNOxやオゾンなどの化学物質、エアロゾル、カビなども挙げられます。後ほど改めて触れたいと思います。
では「大気汚染物質」はどのようなものでしょうか?これはとくに建造物やその装飾物、野外に置かれた石造や金属彫刻などへのインパクトが指摘されます。化石燃料の使用により放出される硫黄や窒素の酸化物SOxやNOxが上空での化学反応で硫酸や硝酸を生じ、これらが酸性雨・酸性雪として降下することで野外遺産に多大な影響を与えています。pH3程度の酸性雨が日本でも記録されています。下の写真は、上野にあるブロンズ・鉄の複合彫刻作品が酸性雨の影響で錆を生じた様子です。もちろん大気中に撒き散らされているSOxやNOxも重大な劣化因子です。また野外だけでなく、これらのガスが屋内に侵入して被害を生じることも多いです。

 

 

大気汚染物質は、これら以外にも、~数ミクロン程度の粒子状エアロゾル(自然あるいは人為起源)があります。前者は海から発生する海塩粒子,火山活動によって発生する粒子などで、後者は火力発電所、自動車や飛行機、工場や生活からの排ガスなどで、野外の文化遺産の劣化因子となります。さらに火山・温泉・湖沼からの硫化水素、一酸化炭素や炭化水素類の光化学反応で生成されるオゾン(成層圏からも輸送される)などが挙げられます。

劣化生成物としては、パルテノン神殿の大理石では硫酸カルシウム、ケルン大聖堂の安山岩や玄武岩などでは炭酸カルシウム、ジョットの壁画(パドバ・スクロベェニ礼拝堂)では硝酸カルシウムや硫酸カルシウムの析出物が観測されています。白色の大理石建造物インドのタージマハルでは黄色劣化物も報告されており、貴重な世界遺産でも深刻な問題であることがわかります。

 

 

 

 

上記の事例のように、石造物やブロンズなどの建築や彫刻などの遺産を多数有する欧州では、大気汚染物質による野外文化遺産の被害は深刻です。しかし日本でも同様の頭の痛い問題は多々生じています。

 

 

東大寺大仏殿前のブロンズ製の灯籠が、酸性雨や大気汚染物質の影響により、硫酸銅や塩化銅といった進行性の悪性錆(これを「ブロンズ病 bronze disease」と称します)を生じており、これを放置すると重大な被害になるため、錆を除去し、金属を安定化させ、修復処置を実施しました。
他の事例ですが・・・京都の御室仁和寺の本殿前ブロンズ製灯籠の下で笠を仰ぎ見た時、ブロンズ病で溶解してできた多数の孔から空が見えたことがあります。

大気汚染物質は多様で、発生源が社会生活とも深い関連があり、さらに国境を越えて広い地域に影響が及ぼされることから、原因を調査・特定し、低減・削除することがきわめて困難です。したがって野外遺産への被害は継続的であり、パルテノン神殿やサンジョバンニ洗礼堂のように、長期間にわたる修復処置が実施されているのが現状です。