前回の記事(「第1回 真珠との出会い」)にも書きましたが、勤務していた㈱ミキモト真珠研究室の移転で鳥羽へ転勤しました。30歳を過ぎた頃です。初めて関西言語圏に住んだのですが、仕事にも環境にも文化にもなかなか馴染めず、淋しい思いをした2年半でした。いろいろ驚いたことが多かったですが、スーパーで売られている鰻の蒲焼を食べたときの衝撃、「頭が付いた鰻の皮はゴムのような食感で、噛み切れなかった!」ことは今でも忘れられません。関西は、腹開きした鰻を蒸さずに焼くためこのような硬い蒲焼になることを後で知ることになります。しかしその時は露知らず、わが家には高価だった蒲焼を恨みました。
住んでいた伊勢市は、ご存じの通り伊勢神宮を中心とした門前町、歴史の街で、近所には「河崎」という、お伊勢参りの舟運の港、商家や蔵が、当時の姿を今に遺しています(写真1)。昼は観光客も多く、賑わいの街並みでしたが、夜になると一転、灯を探すのも難しい暗闇の街と化します。子供の頃からの東京暮らしには、心穏やかではなく、友達もおらず、家族でひっそりとしていました。
写真1 伊勢・川崎の街並み保存(「伊勢志摩観光ナビ」より引用)
そんななか、㈱ミキモト真珠島の松月清郎さん(現・ミキモト真珠島真珠博物館長)と再会しました。松月さんは既に現在の真珠博物館の前身となる部署で業務をされていて、展示資料の蒐集やディスプレー用の写真撮影などを進めていました。以前から真珠研究室の小松室長(当時)とは知己の仲で、私も東京に来られた際に出会っていました。研究室が鳥羽へ移転してきたことで一層の協力関係を築こうと考えていたようです。研究室では走査型電子顕微鏡(SEM)写真を撮ったり、島へ伺って一緒に仕事をする機会が増え、プライベートでも、酒好きの二人は、伊勢のジャズ・バーで遅くまで語り合いました。
伊勢出身の松月さんは、京都の同志社で学び、真珠島に職を得てUターンしたそうです。独特の洗練された雰囲気と豊富な歴史文化的知識を持ち合わせた世界にも稀な「真珠を専門とする」学芸員です。博物館が誕生してから一貫して館長を務められていて、「館長のページ」(※1)のブログは興味深い記事が掲載されています。覗いてみてください。ちなみに鰻が好きだった御木本幸吉についてのエピソードを、『丼はいつも名店・竹葉亭(銀座)から出前を取りました。それは焼いて蒸して、さらにたれをつけて焼いた江戸前の蒲焼のはずで、溜りの濃い、脂滴る鰻になじんでいた幸吉や、同郷出身の御木本真珠店員にとっては、美味な、けれども別の食べ物だったかも知れません。』 と松月さんは書いています。私とは真逆の状況だったようですね。。
先日、渋谷の松濤美術館の「真珠―海からの贈りもの」展を訪問しました。本コラムの読者の中には足を運ばれた方も多いかと思います。小松さんが鑑定した縄文時代の「鳥浜パール」も展示されていましたね。松月さんは、この展覧会を監修されていて、『御木本幸吉と初期の装身具デザイン』という題で講演をされたようです(残念ながら私は聴き逃しました)。もちろんミキモト真珠博物館からも多くの真珠をあしらったジュエリーや養殖資料が出陳されていました。会場で、私にとって思い出深い「ローマ時代真珠ネックレス」(写真2)にも三十数年ぶりに再会することができました。シンメトリックなデザインの美しいネックレスです。どのような女性の首を飾ったのでしょうか?
写真2 「ローマ時代真珠ネックレス」(真珠博物館HPより引用)
この真珠ネックレス(帝政ローマ時代(紀元前後):全長39.7cm)の考古学上の出自は不明な点が多いのですが、かつて㈱ミキモト真珠島が購入し、現在も博物館で収蔵・展示されています。50粒の真珠のいくつかで真珠層の剥落が起きていること受け、私が調査分析することになりました。デザインでは、真珠以外には、生命のシンボルとされる大型・小型の13個のエメラルドと考えられる石、金箔製管と管に付けられた4枚のリーフ(葉脈のエンボス文様)、金製留め金から成っています。金箔リーフのデザインは、フトモモ科の銀梅花(マートル:Myrtus communis)です。銀梅花は香りの良い白い小さな花をつける常緑の灌木で、地中海沿岸の諸国で古くから親しまれ、ヴィーナスに捧げる愛の花といわれます。この葉のデザインはローマよりもむしろギリシャのジュエリーに多く、当時の流行がかなり広範囲にわたっていたようです。
肉眼と顕微鏡で、失われている光沢の様子や層状剥離の状況を観察しました。脱落片の劣化調査では、裏側を中心にSEMによる拡大観察を進めました。どのように剥離したのか、原因は何かを追究したかったからですが、剥離のメカニズムは解明できませんでした。長い嫌気性環境の後で出土し、その後空気中で経過した資料ですので、劣化が起こるのは当然ですが、後の保存(展示)への対策も考えねばなりません。さらに母貝の鑑定も一つのテーマでした。X線回折分析により表面にはアラゴナイト結晶が確認できました。小粒の天然真珠であることはわかりましたが、海水産なのか淡水産なのか不明なため、非破壊蛍光X線分析(XRF)と中性子放射化分析(NAA)によりマンガン含有濃度で判定しようと試みました。結果として、Mn量が多いことを確認でき、最終的に、淡水産二枚貝を母貝とする真珠と推定しました。
これらの調査成果は、職場が東北芸術工科大学へ移った後、1996年にコペンハーゲンで開催されたIIC(国際文化財保存学会)大会でポスター発表しました。タイトルは「Studies on Deteriorated Pearls of an Excavated Roman Necklace」です。同学会の論文誌にもポスター要旨が掲載されています(※2)。この大会は、Archaeological Conservation and its Consequencesを副題にしていて、発掘された文化財の調査や保存修復に関する多くの発表がありました。すでに24年の時が経ちましたが、私にとっては海外での研究発表の初期で、懐かしい思い出です。
そして、二千年の時を経てもなお元気な姿の「ローマ時代真珠ネックレス」を久々に眼にできて感動しました。自分が修理した作品に後年再会したとき、修復家は「元気でいてくれてありがとう」と思うのですが、私も同じような感情に襲われました。この真珠資料との出会いを与えてくれたこと、大切に保存されてきたこと、改めて、松月さんに感謝したいと思います。東京に戻ってからは、ずっと年賀状の交換に終始していますので、一度お会いしたいと思っています。
※1 ミキモト真珠島・真珠博物館「館長のページ」(http://www.mikimoto-pearl-museum.co.jp/museum/blog_archive/index.html)
※2 ” Studies on Deteriorated Pearls of an Excavated Roman Necklace ” , Studies in Conservation, 41(sup2), p. 21(1996)(https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1179/sic.1996.41.s2.021)