京都の紫野にある大徳寺というのは、普通の寺院とはやや趣の異なる臨済宗の寺院である。塔頭(たっちゅう)と呼ばれる小寺院や庵の集合体で、本坊以外に20以上の塔頭があり、それぞれに住職がいる。その多くが非公開となっている。そうした塔頭のひとつに真珠庵と呼ばれる庵がある。真珠庵も普段は非公開だが、今年は秋の時期に一般公開していたので、訪れてみた。
真珠庵は一休さんでお馴染みの一休宗純の住庵として彼が手掛け、命名した塔頭である。1491年に完成したが、その時にはすでに一休は死去していたという。真珠庵の元住職山田宗敏氏の『大徳寺と一休』によれば、真珠庵という名称は、中国禅宗のひとつ楊岐派(ようぎは)の開祖、楊岐方会(ほうえ)の故事に由来するという。楊岐方会が雪の降る日にあばら家に座していると、破れた壁から雪が降りこみ、床に積もった雪が真珠のように見えたという故事である。「方会雪屋」として知られている。雪の輝きに真珠の輝きを思うとは風流であるが、かなり寒そうでもある。一休自身はあばら家に住む楊岐方会に深い思いを寄せていた。今日でも真珠庵の庫裏の戸障子には紙が貼られておらず、楊岐方会のあばら家をしのんでいると言われている。
真珠庵には「真珠の天蓋」として知られる飾りもある。「真珠の天蓋」は、真珠庵の創建に資金供与していた堺の豪商尾和宗臨が当時の中国に発注して寄進したものと言われている。「真珠の天蓋」は大徳寺や真珠庵関連の本でもあまり言及されておらず、これについて述べているのが、司馬遼太郎の『街道をゆく34 大徳寺散歩』である。司馬遼太郎は、真珠庵の仏堂に入ると、天井から真珠を連ねた天蓋がぶらさがっている。案内人に真珠と言われ、目をこらしてみたものの、歳月で黒ずんでおりすぐには真珠と見えない、何しろ室町時代からここにかかっているのであると述べている。
私は司馬遼太郎の文章を読んで、「真珠の天蓋」というものを一目見たいと思っていた。期待しながら真珠庵の一般公開の時期に行ってみたが、「真珠の天蓋」は、真珠の連珠で飾られた天井ではなく、仏像の置かれた空間に天井からつるされている垂飾のようなものであった。真珠や宝玉が側面にはめ込まれ、連珠もついていたが、真珠庵関係者の話によると、古い真珠は新しい真珠に差し替えたという。古い真珠はどこにあるのか、それは見せてもらえるのかと尋ねても、的をえた答えは返ってこなかった。15世紀から16世紀初めの真珠が無事に保存されていることを祈るばかりである。
私は仏教における真珠の高い評価は認識していたが、禅と真珠はあまり結びつかなかった。しかも、日本では奈良時代が過ぎると、真珠は重要視されなくなっていた。それが突然、室町期に真珠庵という具体的な名前が登場し、真珠を使った塔頭の飾りまで作られていた。禅と真珠? どういう関係だろう。私の頭の中ではむしろ謎は深まっているのである。
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パールワンダー7 ー 大徳寺真珠庵