前回も述べましたが、私の専門は有形の文化遺産を相手にした保存科学です。形あるものの寿命を延ばし、これから来る人々にその姿を遺し示すことを目的に、科学技術の援用を研究する立場です。今日は、対象となる文化遺産として古代エジプト文明の遺産である「ミイラ」を取り上げたいと思います。
先日(2021年4月3日)のニュース映像をご覧になったかたも多いと思いますが、国立エジプト考古学博物館(EM)から国立エジプト文明博物館(NMEC)へ人類史上とても貴重なミイラ22体(約3600~2700年前の王と女王のミイラ)が、派手な演出の下、専用車で移送されました(図1)。その中には、新王国時代の著名なファラオ、67年の在位、100人以上の子供がいたとされるラムセス2世の遺体も含まれています(図2)。エジプト政府は、老朽・狭小化したEMから新しく建設したNMECや来年開館予定の大エジプト博物館(GEM)に貴重な文化遺産を移管している途上なのです。世界に発信された映像の中では、軍トップでもあるシシ大統領がNMEC前で現代のファラオよろしく、先祖ミイラ達を載せた専用車の車列を迎えました。EMは仕事で数十回も足を運んだ場所であり、NMECも開館前から数回訪問した館でとても懐かしく、感慨深く見ました。EM前のタハリール広場は、実は2011年1月のエジプト革命の惨劇があった場所なのです。政情不安の時を経て10年、平和や安寧を取り戻せたエジプトですが、外貨収入を観光に頼る国はパンデミックで大打撃を受け苦しんでいます。このパレードも世界へ向けてのアピールだったのでしょう。
図1 EM(左端)を出発しタハリール広場を往くロイヤル・マミー移送車パレード、ここで2011年の革命が起きた
図2 ラムセス2世ミイラを載せた黄金の専用車
この移送専用車で私の興味を引いたのは、ミイラの損傷を防ぐため窒素を充填した特殊なカプセルに入れられ、車体は特別な衝撃吸収材で保護されていたことです。この2点について保存科学の視点から解説したいと思います。
その前に、ミイラについて若干の知識を共有します。ご存じの通り、古代エジプト文明でミイラは来世・復活信仰と密接に結びつています。死者(信仰対象の動物も)の遺体から肺、肝臓、胃、腸を取り出し4つのカノップス壺に入れ別途保存しますが、心臓は遺体に遺したまま、天然炭酸ナトリウム液に2か月ほど浸してミイラ化(mummification)します。終了後、乾燥した遺体全体に亜麻布のバンデージを巻き付けます。最初は荒い織の布ですが、三段階くらいの異なった織糸のバンデージが何層にも巻き付けられ完成します。このようにミイラは哺乳動物や鳥類の「骨やタンパク質」を主体とする有機物そのものなので、吸放湿性をもち空気酸化しやすく、また昆虫や微生物による食害・汚染、有害気体による反応を受けやすい極めて敏感な物質です。劣化損傷が進んだ状態のミイラは悲惨な状況を呈します(図3)。
図3 古代エジプトで造られたミイラ:かなり劣化損傷した状態のため修復処置を待っている
さて話を特殊なカプセルによる封入に移しましょう。例えば皮をむいたりんごの色が茶色く変色するなどの変化は酸化反応が原因で、空気に含まれる約2割の酸素が原因です。ポテトチップスなど食品の包装が膨らんでいるのをご存じだと思いますが、あのアルミ製袋は不活性ガスである窒素が充填されていて無酸素状態(anoxia conditionあるいはoxygen-free)のため酸素が浸透するまでは酸化反応がほとんど起きません。この原理を応用し、適度な水蒸気を含んだ無酸素状態のカプセルにミイラを封入しているのです(図4)。またこのカプセル内は、無菌状態なのでカビ等の微生物からも守られます。もちろん害虫も侵入することはありません。ただ窒素を長期的に高濃度に保ち、内部の適切な相対湿度を維持することが肝要になります。カプセルの材料も重要です。アルミ箔はガス遮断力が高く、食品包装に適していますが、内容物が可視化できない欠点があり、ミュージアムの展示用には不適です。現在では、PVAなどのプラスチックフィルムに蒸着などの方法でガス遮断性能の高いコーティング(塗工)を施したものが多く使われています。
図4 窒素封入カプセルにて展示保存されている古代エジプトのミイラ(EM)
他方で、カイロの道路は、日本とは全く異なり、舗装が悪くガタガタですので、貴重なモノの自動車輸送は大きなリスクが生じます。文化遺産の移送の基本は衝撃や振動から守ることであり、まずエジプト政府は約7㎞の移送経路の舗装をし直しました。また衝撃・振動を緩和する移送車やモノに適した梱包技術が不可欠になります。日本だと、美術品専用車という衝撃吸収機能をもったトラックが使用され、高度な技術をもった専門家が梱包を実施しますが、エジプトでは望めません。今回エジプト政府(軍)は、特別の専用車を作ったのだと思います。ショック・アブソーバーとして使われるのは発砲スチロールやポリエチレン、ウレタンなどの材料や段ボールなどの紙類ですが、最近ではなるべく梱包材とモノとの接触をさけること(接点を減らす)で損傷から守る梱包方法が採用されています。それを実現するためには衝撃に耐えられるコンテナーが必要です(図5)。
図5 日本通運専門家によるツタンカーメン玉座(レプリカ)を使った梱包実習の様子(@JICA GEM-CCプロジェクト 2010):玉座は最小の接点で固定されている
次回は、無酸素環境によるミイラの長期保存技術の周辺について触れたいと思います。