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保存科学の視点から ー 第12回 予防保存(3):水が関与する劣化現象 「塩類風化」

本コラムでは「予防保存(preventive conservation)」を連載しております。環境条件によっては、対象に対し長期的(徐々にgradually)あるいは短期的(急に suddenly)に劣化現象を引き起こすことがあります。前者は温湿度変化などが、後者は地震や火災などが該当します。予防保存はこれらを低減・削除して対象を守ろうとする活動で、このような環境管理の考え方は、文化遺産に限らず社会生活にとっても重要です。環境因子(risk)と影響(impact)との関係性を意識することにより、大切な人命や財産を守ることに繋がります。

 

今回は、CCIが提唱する10項目の劣化因子(ten agents of deterioration)の中の 水(空気中の水蒸気、含有水分、土中・海水・河川)に注目します。

 

 

1.直接的に加わる物理的な力(摩擦、振動、圧力)
2.人災(盗難、ヴァンダリズム、無関心・放置・廃棄)
3.火災(放火、失火)
4.水(空気中の水蒸気、含有水分、土中・海水・河川)
5.有害生物(小動物、害虫、微生物など)
6.汚染物質(有害ガス、エアロゾルなど)
7.光(可視光・紫外線・赤外線)
8.不適切な温度(T)
9.不適切な相対湿度(RH)

10. 解離(資料の所在不明や固有情報・資料価値の喪失)

 

上・下水のみならず大気にも地下にも水は存在し、人類は水から多大な恩恵を受けていますが、逆に台風や豪雨による浸水被害などをもたらす元凶でもあります。文化遺産へのインパクトの様相を考えた時、それは、1)水が単独で影響を及ぼす、2)水が他の因子を助長して影響を及ぼす、に大別されます。2)は有機質を汚染する微生物(カビ)や金属を蝕む錆、などがあります。
また多くの有機質は水と不可分な関係にあり(=有機質は少なからず水分を保有している)、木材や紙、繊維類は周囲の水分環境(湿潤・乾燥)が含水率を変化させ、その結果サイズや形状に大きな影響を及ぼすことがあります。さらには真珠やサンゴ、琥珀、象牙、オパールは長期間の低湿度や高温環境で含有水分を失い、場合によっては、ひびや貫入、剥離が生じることが知られており、劣化を生じさせない温湿度環境の維持が重要です。これについては改めて取り上げたいと思います。

 

 

さて今回は、塩類風化を見てみたいと思います。その多くは野外で起こる劣化現象で、対象となる文化遺産としては、大地と不可分な遺跡・遺構から石仏・摩崖仏、煉瓦造・コンクリート造の建造物まで幅広いです。塩類風化は、地形学の4つの地形変化プロセス、風化→侵蝕→運搬→堆積のなかの第一段階に分類されますが、水が主たる原因です。

典型的な事例を紹介します。イタリアの世界遺産「ベネチア」は潟の上に多くの歴史的建造物が建っていますが、運河に面した煉瓦壁の塩類風化が顕著です。下左の写真では壁に白色結晶が顕著に析出し(白華現象)、下右の写真では壁が崩れ落ちてしまい、建築自体が危機的状況にあります。この例では大量の海水が建造物内に浸透したことで劣化が生じています。

 

 

 

一方、下は古代エジプト新王国時代の遺跡「カルナック神殿」(世界遺産)とそこで撮影した石灰岩の塩類風化を示す写真です。ここルクソールは乾燥地帯なので雨はほとんど降りませんが、傍にナイル河が流れ、地下水位の上昇が起こっています。浸透水が石材の無機成分を溶解し、表面に移動したイオンが反応し再結晶化、白色の塩として析出し、部分的な崩落が生じています。新規開発された周辺の農地に関係する水が地下水となって侵入し続けていることがわかり、遺跡存続の危機が指摘されています。

 

 

 

つぎに日本での事例ですが、世界遺産「富岡製糸場」(群馬県)の「日本初の煉瓦壁」(明治5年)に生じた塩類風化を紹介します。下右の写真では壁の表面に白い結晶が生じており、煉瓦が粉状化し、下部では崩落している様子がわかります。この現象は多くの煉瓦壁の低い位置で確認され、傍を流れる鏑川(繭を煮る工程で必要とされた大量の水を提供し富岡製糸場を支えた川と称される)から供給される地下水の上昇の影響が示唆されます。

 

 

塩類風化は摩崖仏でも起こります。下の写真は大分県大分市にある元町石仏(国史跡:11世紀)です。摩崖仏とは自然の岩壁や露岩、あるいは石に彫られた仏像のことを指し、この像は阿蘇溶結凝灰岩の崖面に彫刻されています。本尊は高さ約5.15メートルの薬師如来坐像で、左には矜羯羅童子、制多迦童子を従える不動明王(頭部欠損)が配されています。

 

表面保存処理後の覆屋内の元町石仏(2020)

 

修復前の画像では、表面の広範囲(特に衣)に白い結晶が析出し(左下)、さらに顔や胸部で表層が亀裂・剥離しさらに内部が崩落した様子(右下)が窺えます。この白い結晶はX線回折分析の結果、テナルダイト(硫酸ナトリウム)とジプサム(石膏:硫酸カルシウム)が確認されていますが、場所により結晶の化学種は異なるようです。

 

 

修復前の元町石仏(2008)

 

これらの事例で共通するのは眼につく「白い結晶」ですが、隠れた要因として「水」や「毛細管現象」が重要です。塩類風化は、浸透してきた水が煉瓦や岩石、土壌などの成分である無機塩類を溶解し、その溶液が表面まで移動し、再結晶化することで発生します。この際に、表層(とくに節理面に沿った石材の部分欠落や鱗状剥離によって露わになった部分)では結晶化時の応力で粉状化し崩落したり、硬い表面だけが残ったりします。析出する白色結晶は、硫酸カルシウム、塩化カルシウム、硫酸ナトリウム、炭酸カルシウムなどが多いようです。

塩類風化のメカニズムはかなり前からわかっていて、風雨から元町石仏を守るため、また気温の安定化を進め表面での蒸発をできるだけ減らすため、写真のような覆屋(石仏の前面に建てられた保護用木造建物)を設置しています。また昭和~平成の保存工事では、1)石仏背後へのトンネル掘削と水遮断壁の挿入、2)石仏地下の排水ボーリングと集水井戸の設置などの地下水位を下げる対策が行われました。また脆弱化した表面の強化処置も実施したのですが、これらが塩類風化の進行をどの程度遅らせることができるのか解明されていません。まさに「水」が主役の劣化現象ですから石仏内部での水の挙動を可視化することが予防対策に必要ですが、それは現代科学の粋をもってしても難しいのが現状です。

 

元町石仏の覆屋外観

 

最近の継続的調査によって「冬季を中心に硫酸ナトリウムの析出」が確認され、劣化に季節性があることが判明しました。この現象は、蒸発による表面での水分濃縮だけでなく、気温低下による溶解度変化の影響が大きいです。硫酸ナトリウムは気温が下がるにつれて溶解度が急減するため、石仏表面で多くの塩が再結晶します。覆屋の改修と常時扉を閉じることにより周辺気温を冬季に3℃上げたことで塩類析出が減ったとの報告もあり、気温・相対湿度の管理が塩類風化を抑制することに繋がります。冬季は非公開にするなどの予防保存対策が効果的と考えられますが、現在も篤い信仰の対象である石仏の保護には地域住民の理解や協力が不可欠です。