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コラム

保存科学の視点から – 第10回 予防保存(1):劣化現象と環境因子の関係性

以前勤務した会社を退職後、1993年から16年間は東北芸術工科大学、2009年から現在までは東洋美術学校で教鞭を執っています。現在は、保存修復(conservation)のなかでも保存科学(conservation science)分野を担い、1年次は「基礎科学」、「文化遺産保存入門」、「コンサバター入門」を、2年次は「予防保存学」、「保存科学」、3年次は「科学分析・診断法」、「材料試験法」、4年次は「卒業研究」を担当しています。今回からコラムでは、予防保存について触れてみたいと思います。
美術作品や歴史資料を守るための「予防保存(preventive conservation)」という考え方は20世紀の重要な産物であり、本格的な研究が始まったのは第二次大戦後の1950年代です。それ以前のミュージアムでは一部の貴重で価値の高い作品・資料は選別され修理が施されましたが、劣化し傷つき展示に耐えられないコレクションは収蔵庫の隅に放置/廃棄されていました。また修理手法も現代のような原理はなく、傷んだ部分は切り取り付け替えられ、図像も意図的に塗り重ねられることも多かったようです。制作原初の状態(オリジナル)を重要視する姿勢や作者への敬意が低かったことが背景にあります。文化遺産保護へ鳴らされた警鐘を基にこれらに対する反省に立ち、近年では作品・資料の真実性(authenticity)を重視し最大限にこれを維持しようとする方策を採用しています。そのなかに、対象へ触れることなく環境改善をその手法とする「予防保存」や不可欠な介入処置へ理念的・技術的な改善を求めた「修復」などが位置付けられたわけです。
予防保存の原理は、対象が置かれた環境因子(リスク)と因子が及ぼす影響(インパクト)との関係性で説明されます。リスクが広まり高まればインパクトも大きく激しくなり、逆にリスクを軽減・除去できればインパクトも抑制できるとの考え方です。実は私たちの生活や仕事も、具体的なリスクヘッジ(起こりうるリスクの程度を予測して、リスクに対応できる体制を取って備えること)が迫られています。予防保存は、ある条件の下で劣化現象を引き起こす可能性ある環境因子を精査し、事前にこれらを低減・削除して対象を守ろうとするコンセプトが基盤にあります。
作品・資料を取り巻く環境因子に関して、予防保存分野で大きな影響力をもってきたカナダ国立文化遺産保存研究所(Canadian Conservation Institute:CCI)は、Framework for Preserving Heritage Collections: Strategies for Avoiding or Reducing Damageで、以下に示す10項目の劣化因子(ten agents of deterioration)を提唱しています。これらは以下のCCIのサイトで詳しく説明されています。

https://www.canada.ca/en/conservation-institute/services/agents-deterioration.html

1.直接的に加わる物理的な力(摩擦、振動、圧力)
2.人災(盗難、ヴァンダリズム、無関心・放置・廃棄)
3.火災(放火、失火)
4.水(空気中の水蒸気、含有水分、土中・海水・河川)
5.有害生物(小動物、害虫、微生物など)
6.汚染物質(ガス、エアロゾルなど)
7.光(可視光・紫外線・赤外線)
8.不適切な温度(T)
9.不適切な相対湿度(RH)
10. 解離(資料の所在不明や固有情報・資料価値の喪失)

10項目について概観できるよう作成されたポスターを共有します。下記サイトでダウンロードできます。
https://www.canada.ca/en/conservation-institute/services/preventive-conservation/framework-preserving-heritage-collections.html

 

例えば「マンガ原画」の周辺環境は、上の画像のように、「外的な因子」として描くことができます。また原画は「内的な因子」も劣化を引き起こす可能性があります。それは、原画の描かれた紙が生来的にもっているスロー・ファイヤー(ロジンサイジングのために加えられる硫酸アルミニウムにより徐々に紙の茶変色・硬化・亀裂などが生じ,最後は粉状化する“酸性紙”の劣化現象)の要因や貼り付けられた写植や粘着テープなどです。さらに以前紹介したような水害により汚染水を被り、甚大な微生物被害を生じることも報告され、その場合は複数の因子が加わった劣化現象が起こります。

さらにCCIは、上記のコレクション・ケア・システムを提唱しており、これはミュージアム・コレクションだけでなく、一般的な装飾品や衣料品などの保存・保管にも適用可能です。
事例として、勤務した会社の研究部門での経験「金製ネックレスに黒っぽい錆が発生したケース」を紹介します。これは某百貨店のショーケース内の展示品で発生した事案で、同じ商品群は他の百貨店でも売られているのにこの百貨店でのみで起こった不思議な現象でした。そこで、まず当該ネックレスの材質や錆成分の化学分析(蛍光X線分析(XRF)、X線光電子分光法(XPS))を実施しました。その結果、このネックレスは銀や銅を含むK-18 合金で、錆は硫化銀や硫化銅(AgS、CuS・Cu2S)ということがわかりました。
そこで「なぜ、どのように硫黄(S)との反応が起きたのか」が謎になりました。謎を解くためにSの出所がどこにあるのかを追究しました。最初は交通量の多い周辺環境から流入してきた汚染ガス(SOx)を疑い、この現象がケース外でも起こるか観察しましたが否定的な結果でした。そこで原因をケース内に求め、そのどこにSの発生源があるのかを解明するため各用材のXRF分析を実施したところ、ネックレスの展示台に貼られたクロス(濃臙脂色布)から多量のSが検出されました。このクロスを新品のネックレスと一緒に恒温槽に置き、反応性を高めるために加湿・加温したところ、短期間で錆化の再現が確認できました。結論として「クロスのSを含む染料(硫化染料)から発したSを含むガスがK-18 合金中の銀や銅と反応し上記の錆を発生させた」と診断しました。そして劣化因子の除去として、このクロスを硫化染料不使用の布に代替したところ、その後錆はまったく起こりませんでした。K-18に生じた錆は研磨して取り除いたのは言うまでもありません。
これで一件解決かと思われたのですが、実は他にも顧客からの訴えで類似の錆発生の事故が多数あったことが判明しました。調査した結果、商品購入時に渡されるネックレスやリング等の保管ケースにも硫化染料による濃茶色布が貼られていたことがわかり原因が特定できました。これを営業部門に指摘し、時間はかかりましたが、同社が使うクロスから硫化染料を含むすべての布を排除することができました。今もクロスには濃色が使われていないようです。
以上の例から学ぶべきは、対象物の保存や保管、梱包、展示で使用される素材・材料への配慮で、具体的には用材に含まれる有害物質の事前調査の必要性です。以前、一時的な展覧会のために設えたショーケースの合板接着剤(アルデヒド成分)が原因で、展示された日本画の鉛系顔料の一部で変色事故が起こり、学会で報告されました。一度変色した顔料は元には戻りません。これも用材に対する事前の配慮や吟味が不足していたと考えられます。まさに予防保存の重要性、コレクション・ケア・システムの導入が指摘される理由がここにあります。今後の本コラムでは、CCIが提唱する劣化因子を取り上げていきたいと思います。