「化石燃料の使用を控え二酸化炭素排出量を削減すべし」との動きは、1990年代に始まりましたが、太陽光や風力発電などの再生可能エネルギーへの代替化の実現には程遠く、爾来30年経ちました。結果として、21世紀に入り顕著になってきた地球温暖化現象は、その悪影響と考えられる自然災害が多発し人類生存にとって大きな脅威となっています。日本でも、最近は毎年のように大型台風が襲来し河川洪水などが起こっています。2019年10月に本土を襲った台風19号で、東京と神奈川の都県境を流れる多摩川流域各所で内水氾濫(※)が発生し、川崎市の武蔵小杉などではタワーマンションへの浸水・冠水で電源が失われ、住民生活に多大な被害をもたらしました。また東京都立大学図書館など文化施設でも浸水被害がありました。
※平坦な土地に強い雨が降ると、雨水がはけきらずに地面に溜まります。低いところには周囲から水が流れ込んできて浸水の規模が大きくなります。排水用の水路や小河川は水位を増して真っ先に溢れ出します。このようにして起きる洪水を内水氾濫と呼び、本川の堤防が切れたり溢れたりして生じる外水氾濫とは区別しています。(防災科学技術研究所自然災害情報室HPより引用)
地域市民の生命や生活、インフラへの被害だけでなく、洪水は文化遺産へも多大な影響を及ぼします。この台風による内水氾濫で侵入した大量の汚水は、武蔵小杉駅に近い「川崎市民ミュージアム」の地下階収蔵庫へ侵入し、10月12日夕からコレクションは汚水に曝され続けました。消防車による排水が完了した18日昼に現場に入った館員たちが被害状況を初めて確認したとき、水位は天井まで達しておりすべての所蔵品は完全に水没したことが判明しました。しかし、この惨状は序章に過ぎず、浸水後にコレクションに発生し始めた「白いカビ」が瞬く間に蔓延し、木造の収蔵庫や紙などの有機物でできた大量のコレクションは、カビにことごとく蹂躙されていったのです。さらに、翌2020年に始まった収蔵品の搬出作業は困難を極め、洗浄など修復作業は2年を過ぎた現在も続きていて、いつ終わるのかの目途も立っていません。
地下階の入口付近の浸水状況と排水後の様子
私たちが最初にこの現場に入ったのは、被災後1か月余り経った頃で、以前からマンガ資料でお付き合いがあった学芸員からの要請を受けてのことでした。写真や映画フィルムなどは、真っ先に搬出が実施され、その後日本画やポスターの被災調査などへ拡大し、11月になってようやくマンガ資料へ着手するという後手にまわった対応でした。最後に、一番被害がひどかった民俗文化財収蔵庫の扉が開けられ、被害の全貌が明らかになったわけです。修復依頼を受けたマンガ原画が本校へやってきたのは、12月半ばでした。このとき、原画はすでに多くの黒いカビの菌叢や紙のセルロースが分解された様相を呈していました。私たちは、これら資料を事前に準備しておいた冷凍庫(-30℃)に直ちに移して保存し、修復までの時間稼ぎを始めました。
年末も押し迫った頃、カビの専門家、元国立医薬品食品衛生研究所衛生微生物部長で、NPO 法人カビ相談センター理事長の高鳥浩介先生をお連れし再度現場に入った際に驚いたのは、白かったカビが濃緑色あるいは黒色のカビに変わっていたことです。高鳥先生によるカビの同定作業により、発生したカビは「ツチアオカビ(Trichoderma viride)」が大勢を占めていることが判明しました。このカビは、湿気の多い場所によく生えます。その和名の通り、土壌に多く、自然界では落葉や倒木を分解することができます。ところが、住宅では縁の下の基礎木材をはじめとする建材や畳の裏に発生して「カビくさい」臭いを出します。セルロース分解性が強く、木材や繊維を劣化させたり、腐朽させたりします。最初は白色ですが、生育につれ黄緑色〜濃緑色となり、黒っぽく見えるそうです。まさに収蔵庫で観察された実態そのものです。内水氾濫で侵入した汚水に大量のツチアオカビが含まれ、排水後にすこしずつ出現した資料に感染して大発生が起こったと考えられます。収蔵庫内は、酸素、温度や湿度、有機物のカビ生育のための環境三要素がそろってしまったわけです。
被災後の民俗文化財収蔵庫内部:白い漆喰壁・天井がカビにより褐色に変色している
川崎市民ミュージアムは、現地での再建を断念し別な地に移転することが決まりましたが、その道筋はいまだ不透明です。他方、市民ミュージアムでは今回の浸水被害について、記録し情報を残す努力を続けています。下記のYoutubeでそれを視聴できますので、ぜひ参考にしてください。