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コラム

保存科学の視点からー第3回 文化遺産の多様な価値とは?

私の専門は有形の文化遺産を相手にした保存科学です。形あるものの寿命を延ばし、これから来る人々にその姿を遺し示すことを目的に、科学技術の援用を研究する立場です。
対象となる文化遺産とは何か、そもそも文化とは何か、を解き起こす必要があります。ここでは、『人類の諸々の活動で生み出された所産で、受け継ぐべき価値をもつ実体』としておきましょう。ご存じの通り、人類はその長い歴史の中で、多様な価値を創造し、知恵を生み出し、さまざまな経験をしてきました。それらは世界各地に広がるロマンでもあり、人類の失敗に継ぐ悲惨な足跡でもあります。さらに地球という自然環境との共存も記憶に残ります(現在のコロナ禍も一例ですね)。実体のなかには、有形のものも無形のものもあります。審美的な価値が付与され積極的に受け継がれてきたものもあれば、埋葬されあるいは災害等で消滅し土中に埋まったものも多いです。海底に沈んでいる船もあります。
先日の新聞には、長崎県沖に沈んでいる元寇船の引き上げと、その保存技術について報道がありました。記事に登場する大阪市文化財協会の伊藤幸司さんは木製遺産の保存科学を研究している友人です。伊藤さんらはトレハロースいう糖の一種を、長期間水浸した結果、飽水てひどく脆弱化した木材に適用する技術(トレハロースを浸み込ませ水と置換し強化する保存処理法)を考案しました。この薬剤は微生物をでんぷんに作用することで安価に製造されるので、コスパもよく、また処理時間も従来法より大幅に短縮できるそうです。元寇で沈没した船という歴史的価値の高い遺産が、目前に姿を現す日も近いかとわくわくします。

日本では国宝や重要文化財などの指定文化財という包括的な保護制度があり、世界ではユネスコ文化遺産という基準で人類史のモニュメントが守られています。いずれにせよ、価値が広く認められることで、公的な保護の対象となります。公的というのは、日本でいえば税金であり、ユネスコでは国連加盟国からの拠出金の投入を意味します。したがって、対象の「価値」こそが、文化活動の資産を積極的に保護するか否かの分水嶺のごとく考えられます。では「価値」はどのように形成され認識されるのでしょうか?わが国の文化財保護制度では、専門家による委員会がその任にあり、歴史学や考古学、民俗学、美術史、地域学などの観点から価値づけされることが多いようです。引き上げられ保存処理された元寇船は、議論の余地なく、公的保護の対象になるでしょう。
しかし、近現代の文化、サブカルチャーと呼ばれるような文化は、公的な保護の対象に入らないことが多いです。委員会の構成員に理解者がいないのが一般的で、文化が未熟とされ価値が定まっていない(とくに大衆文化は学問的な価値が低いと扱われる)ことが主因と考えられます。このような従来の考え方では網がかけられず失われていく資産の多いことに気づきます。貴重な写真、映像資料、絵葉書なども一部は危機的な状況下にあります。
ここ5年間ほど、わたしの属する東洋美術学校保存修復科では、漫画原画を対象に、さまざまな保存科学研究を進めています。漫画文化を専門とする方が本校講師を務めていた関係で、原画の保存に興味をもった学生が卒業研究に取り上げたことが端緒でした。その後、惜しくも昨年末に鬼籍に入られたお二人、「釣りキチ三平」の矢口高雄さんとレディースコミックの花村えい子さんという、漫画界の巨匠達の原画を研究する機会に恵まれました。劣化状況の科学的検討、保存環境の調査や改善、寿命の予測などをテーマに推進しています。また大英博物館のMANGA展でも展示された「あしたのジョー」(ちばてつや)の最終場面の原画の調査もおこないました。さらに、一昨年10月に列島を襲った台風19号による水損被害を受けた川崎市民ミュージアムの原画のレスキューと冷凍保管、安定化処置・クリーニングを進めているところです。ストーリーの一部をなす肉筆の漫画原画は、雑誌や単行本出版のための中間生産物との位置づけですが、1点ものの絵画とは異なる独特の価値をもっています。

原画のFTIR調査(横手市増田まんが美術館)

「あしたのジョー」最終場面の原画観察(左:正反射光、右:斜光)

サブカルチャーと称される漫画やアニメですが、アジア諸国だけでなく欧米でも関心は非常に高く、大英博だけでなくルーブル美術館でも大規模な展覧会が開催され多くの来場者から高い美術的評価を得ています。大英博では、著名漫画家の原画蒐集を始めました。手塚治虫の原画はオークションで数千万円の値(経済的価値)が付きました。「カネと価値観を積んだ黒船」が日本へ侵襲してきているような感があり、原画を所蔵する高齢化した作家の今後とともにその大量流出が危惧されます。今では国内でも高い評価を受ける「浮世絵」の海外へ流出を許してしまった苦い経験をもっています。国内における価値の醸成を待っていると、後で臍を噛むことになるかもしれません。国会議員には漫画の価値を認めない勢力がいて合意形成が遅れていましたが、ようやく文化庁が民間の力を借りようと動き始めています。昨年リニュアルオープンした横手市増田まんが美術館のような原画を大量にアーカイブできる館が速やかに増えることを切に望みます。日本に現存する約5000万枚の原画の流出を防ぎ、積極的に保存活用できたら海外にも胸を張れますね。

横手市増田まんが美術館(収蔵庫の様子を原画展示室から見られる素晴らしい空間配置)

では真珠を含めた宝飾品はどうでしょうか?
昨年開催された「真珠-海からの贈りもの」展(渋谷区立松濤美術館)は、縄文真珠を始め多様な真珠をあしらったジュエリーを歴史的に俯瞰できる大変興味深い展示でした。監修された松月清郎さんはミキモト真珠博物館の館長で、同館は国内外の数々の真珠ジュエリーを蒐集し保存展示しています。一企業であってもこのような施設があることは心強いですが、一般に真珠や宝飾品は消耗品の扱いであって、価値ある文化資源として認識するには至っていないように感じます。欧米ですと、博物館や美術館には必ずと言っていいほど服飾文化の展示室が設けられ、稀少だった真珠を始めジュエリーなども展示されています。日本では、着物の展示はあっても、宝飾品は簪などが数少なですね。縄文時代以来の宝飾文化を展観できる専門的な美術館が必要ではないでしょうか。学芸員による資料の収蔵・保存、研究・展示などがおこなえる施設の設立、そのためにドネーションしてくれる業界団体や関係する財団の出現に期待します。
漫画原画も真珠や宝飾品も、「人類の諸々の活動で生み出された所産で、受け継ぐべき価値をもつ実体」に含まれると考えます。私は、保存科学分野を専門とすることに喜びを感じつつ、今しばらく冒険の旅を続けようと思います。