やはり冬の到来と共にコロナの感染が急激に拡大してきました。東京では連日500名を超える感染者数がニュースで紹介され、飲食店には夜間の営業自粛要請などが東京都などで発せられている状態。我々の業界もそうですが、飲食店やホテル産業は3月から6月までは地獄の日々だったと思います。8月ぐらいから日常が戻りはじめ、秋の声を聴いてようやく上向きかけたところにコロナ禍の再燃。本当に街角から悲鳴が聴こえてきそうな雰囲気です。これは日本だけではなく、欧米でも夜間外出禁止令やレストランの閉鎖などが開始されています。
真珠業界に入ってそれなりに月日が経ちました。その間、命の危険を伴う経験も含めてそれこそ世界を揺るがすような大事件が何度もありました。1995年には阪神淡路大震災、2001年の米国同時多発テロ事件(9・11)、そして2011年の東日本大震災・・・ところが、このコロナ禍はこの3つに比べても特異です。それは、筆者が今年は一度も海外に出なかった点。1995年でもスイスや香港へ行っていました。2001年は米国と香港へ、2011年も香港へ2回渡航しています。当然、この3つの年以外は年平均4回以上海外へ。それを考えると、今年の異常さは明白です。
コロナ禍で辛い今だからこそ紹介したい話があります。宮城県女川町は入り江の奥にある小さな漁港。東日本大震災では津波が異常な高さとなり、約1万人の人口に対して死者行方不明者は827名、記録された津波の高さは17.6m、被害を受けた住宅は89.2%という凄まじさ。2011年11月に訪れましたが、そこには完全に破壊された町の痕だけが広がっていました。震災からわずか8か月後、女川町の中学1年生が社会科の授業を通じ、未来に必ず発生する津波の被害を最小限にする対策案を発表しました。合言葉は「千年後の命を守る」。その活動の一つが津波到達地点に「いのちの石碑」の設置です。地震が発生したら、この石碑よりも高い場所へ逃げろとの目印。2012年11月には早くも1基目が設置され、今ではその数は17基となっています。
なんという行動力でしょうか!町が完全に破壊され、家を失い、家族や友人知人を失うという絶望のどん底の中で、中学生たちの未来を見据えたその発想や行動には脱帽です。この熱意はおそらく町中に広がったのではないでしょうか?2019年3月に訪れた時には見違えるような街並みが女川にありました。今の我々も、この女川の中学生を見習わなければなりません。2011年の女川町の中学生よりも、我々はまだ遥かに多くのものを持っているのですから。「今,女川町は,どうなっていますか?悲しみで涙を流す人が少しでも減り,笑顔溢れる町になることを祈り,そして信じています。女川中学卒業生一同」と石碑の最後には刻まれています。
「たとえ明日、世界が終わりになろうとも、私はリンゴの木を植える」。日本では作家開高健が広めた感がありますが、オリジナルは16世紀の宗教家マルティン・ルターの言葉。真珠業会を見渡せば、やるべきことは山ほどあります。こんな時代だからこそ、未来を信じて「リンゴの木」を植えていきたいと思います。
坂本昭さん、「真珠の散歩道」の執筆活動ありがとうございました!若輩者の私が言うのも変ですが、戦友を失うような寂しさがあります。番外編でのご指導ご鞭撻をお待ちいたしております!
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パールジャーナル - リンゴの木を植える