現存する日本最古の書物『古事記』は、712年に太安万侶(おおのやすまろ)によって編纂された。『古事記』には真珠を意味する「珠」や「多麻(たま)」という言葉がしばしば登場し、「斯良多麻(しらたま)」という言葉も1回登場する。太古の時代から真珠は珍重されていた。太安万侶は723年に死去したが、興味深いのは、20世紀後半に彼の墓が発見されたことだろう。彼の骨とともに真珠も4つ出土した。
1979年1月、太安万侶の墓は奈良市田原地区の茶畑で偶然見つかった。茶畑の持主が古い樹木を抜いていたら、掘った土から炭が出てきた。持主は、昔ここが炭焼場だったのかと思い、炭を自宅で使うために持ち帰った。次の日も炭は出続けた、三日後も炭は出ていたが、突如、土地が崩れ、空洞が現れた。中をのぞくと灰の中に火葬された人骨があった。持主はこの場所が墓だったことを知ったが、これからも茶畑として使いたかったので、人骨を供養しようと骨を拾った。数日後、骨上げを完了すると、その下から銅板が見つかった。その後、この銅板は太安万侶の墓誌であることが判明し、関係者の間で大騒ぎとなった。真珠も骨と灰の中から見つけ出された。これが太安万侶の木炭で覆われた墓の発見であった。それ以前は『古事記』は偽書だと考えられ、太安万侶の存在も疑われていたが、そうした疑惑は一気に吹き飛んでしまった。まさに「世紀の大発見」だった。テレビや新聞が大々的に報道し、ヘリコプターが茶畑の上を舞い、見物人が殺到した。いまでは史跡に指定されている。
私は太安万侶の真珠や墓誌は橿原考古学研究所附属博物館で見たことがあったが、発見のエピソードが面白いので、現地の茶畑の墓も訪れたいと思っていた、先日、ようやくその機会に恵まれた。近鉄奈良駅から一日に数本しかないバスにゆられて30分。田原横田というバス停で降り、水田や畑が広がり、茶畑が遠くに見える人影のない道を15分ほど歩く。最後の5分は茶畑に分け入るが、茶畑というよりこんもりとした茶山。想像以上の急勾配の道で、かなりの高さまで登っていく。すると突然左手に太安万侶の墓が現れた。急斜面に石が円形に置かれており、ここが直径4.5メートルの彼の円墳を指すところなのだろう。私は、このように急な小山の上に彼の墓があったことを意外に思い、さらにこの場所で真珠が発見されたことを感慨深く思った。
真珠は直径3ミリから5.4ミリまでの球形で、2つに真珠光沢が残っており、アコヤ真珠と推定されている。真珠に焼成の跡がないことから、火葬後の人骨とともに置かれたと考えられている。太安万侶の墓が造営された当時は、埋葬を簡素にする薄葬(はくそう)が要請されており、火葬が広まり出した時期であった。かつては真珠や玉などは貴重な副葬品として使われ、死者の口に珠玉を含ませる飯含(はんがん)という風習などもあった。珠玉を副葬するのは死後の豊かさを願ってのことだろう。しかし、これらは禁止されていた。それにもかかわらず、太安万侶の家族は故人の安寧を願い、真珠をひそかに置いたのかもしれない。それがまさに1300年前の奈良の山の上で行われたのだった。太安万侶の墓まで来ると、故人の死後の幸せを真珠に託した当時の人の思いがここにあったことを一層強く感じたのだった。